昭和四十六年十月二十三日
御理解 第五節『これまで神がものを言うて聞かせる事はあるまい、どこへ参っても片便で願い捨てであろうが、それでも一心を立てれば、我が心に神がござるからおかげになるのぢゃ、生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだ事なし、此の方が祈る所は天地金乃神と一心なり』
金光様の御信心はこの様な信心なんです、教祖の神様が天地金乃神と一心なりと、此の方が祈るところ天地金乃神と一心なりと教えられる、ですから段々私どもの信心も天地金の神と一心になって行かなければならない、天地金の神と一心になると言う事は、天地の心を心としての、生き方、信心、と言うことでありましょう、もう天地と共に神様と共にある、神様と言うても天地金の神と共に、ある様な働きを身に感じながらの、生活、生き方にならして頂くと言う事は、もうこの上もない幸せ、この上もない有難いことになるのです、私どもはそれをいつも、実感として感じれる、おかげをいただきたいと思う、例えば今朝控えに出て参ります、最近は応接台の前に座らずに、椅子が置いて御座いますね、腰かけがだからあの、あそこえほとんど二十分位は腰掛けて、あと五分か十分と言う時に、私は座布団に敷いてあるところに座ることにしておるのです、足がその方が楽ですから、椅子に掛けておるです、幹三郎は横にだから座っておる訳です。
そうすると当番の先生が四時と同時に襖を明けて、言葉は申しませんから開けてあそこに平服しておられます、それに私が座布団に座っておらなかったら、一寸格好がつきませんよね、ですから迎えを頂く寸前に私は座布団にすわる事にしているのです、それを椅子に掛けておりますと、うかつにしておると所謂タイミングが悪い事になるのです、こう襖を開ける椅子は向こうの方にありすから、ですからそのところのタイミングをはずさん様に、まあ五分か十分前に座布団に座らせて頂く事にして居りますが、今日うかつにしておりましたら、こうやって椅子に腰掛けて頂いとりましたら、ここのところでカチッとおいさみがありました、ああ時間だなと思うて座らせて頂いたら、もうまもなく何分かしましたら襖が開いた、もうそう言う意味ではないいつもなのです。
いろんな場合、例えば裏の方に居りましても、何か神様がお広前に御用がある時には何かでお知らせくださる、出て見るとあなたがお参りしてきておったんだねと言う事が、いつもである、これなんかわね、段々私は天地金の神と一心になって行っておる、姿だと思いますね、天地がそれは理屈の上では信心がわかり、天地金の神様の本質とでも申しましょうかね、と言うのがわかると言うだけならばです、私どもがどういう神様を拝んでおるかわからんですけれども、その神様が共に私と一緒に一心になからなければならない、と言うて、ならばそう言う事ばかりではない。
だからそこに絶えずいのりが必要なのです、本当にお風呂に入らせて頂くこと一つでもやはりお願いして入らなければいけません、お便所に入らせて頂くでもどうぞ気持ちの良いお通じを頂きます様にと願ひ、願いではなくて只今からお便所に入らせて頂きますと言う願いです、でないとタイミングを悪くしたりする事になるからです、神様がいつもかつもつききりで、さあお風呂に行け、さあ便所に行けと仰る事はないですから、だからそこんところを願って行く、どんな事の場合でもそうです、お食事をさせて頂くでも同じ事例えばそこまで善導寺だからと言うて、簡単には立ち上がられません、だから矢張り神様があのお知らせを下さったりおいさみがあって、さあ今立て、さあ今立てと仰って下さる訳じゃないですから、いつもかつもじゃないのですからね、それで祈って行かねばいけんのです、願って行かねばいけんのです、特に車に乗って行かれる方達の場合なんかは、もうこの祈りが絶対じゃないかと思ふですね、一寸ぐらい靴を脱ぐしやからしかろうばってん、めいめいところの御神前に座って、只いまから久留米にやらせて頂きますと、お願いをして行かねば居られんのです、実を言うたら私はそれを親教会にお参りさせて頂くときに、北野の関さんが送って下さっておった。
向こうに見えたからああそうですかと言うて、うかつに御祈念もせずに、乗らせて頂いて、そこのところを出たのと、向こうからトラックが来たのと一緒でございました、だからこれはもう危ないことで、衝突と言う事でしたがそれでもやっぱり、久留米から来るのがこちら側を通っとった訳ですね、ですから向こうが悪いから少し修繕しなければならない様になった事は、向こうが弁償なさいましたけども、もう本当にひやっととする事ですよね、出会い頭にぱーっとトラックが、まちっと胴腹のところにでも来ておったら、大変な事でしたよ前の方が少しそでた、だけだったけど、もう私はそれ以来もう本当に、どこまでやらせて頂くても、誰の車に乗らせて頂くでも、お願いして行かねば居られませんそう言う祈り、そう言う願いがです、頂くおかげを受けさして貰う、そうしてですお願いをさして貰う、皆さんで言うならば、お取り次ぎを頂いて、起きて来る事ならばです、これは神様の御都合と頂ける訳なんです、今から例えば善導寺にやらして頂く事でも、神様にお願いをした、途中で事故があったとしてもそれはお願いをしてからの事であるから、神様の御都合と頂ける。
まあ今日のところは余談の様ですけれども、今朝もうあと五分で、四時だと言うときもう迎えに出て下さる、もう襖を開けてくださるそこんところのタイミングを失わない様に、五分前なら五分前に掛けている椅子においさみがつく、ああもう時間だなと思うて、そう言う風に感じれる、感じるです、神様がほらほらと言うて下さる事を感じるです、ですから私の心はいやがうえにも有り難うなって来る、し言うて私の場合いつもかつもと言う事ではない、私の朝の御祈念でもそうでしょう、私は四時から一時間御祈念をさせて貰う祈りの内容はいつも違う、それでもやっぱり狂いがない程しに、五時なら五時にちやんと此処へ、時間を計ったり見ている訳ではないのです、ところが私も感ーー完璧ではないから、五分ーー五時五分の時もあります、五時前十分と言う時もあります、けれどもだいたいに於いて、私と神様が一心である、交流し続けておる、その実感を私は何時もその実感で、お取り次ぎさせて頂きます。
これは天地金の神と一心、ですからお互いの信心もです、教祖の神だけがこの方が祈るところ天地金の神と一心なりと言う事ではなくて私ども、一心にならなければまあそれを言うならば、神様といつも共に在ると言う、理屈の上では分かるけど、なら神様と共にあるならです、例えば私が日々体験させて貰いよる様な、ところが一日の中にところどころで良いからなからなければいけん、神様は間違いないなあ、神様の働きは間違いないなあと、思うところに愈々有難さは高められて来る、間違いないな、と言う神様を信ずる心はいよいよ強くなって来ることになって来るのです、そのおかげを頂く事のためにこれまで神がものを言うて聞かせる事ではない、どこへ参っても片便の願い捨てであろうがとおっしやられる。
ところが教祖御出張によって私どもは片便の願い捨てではなくて、勿論願う事も出来れば、又それを御返事と聞いて帰る事も出来る、事になった、ところがどうでしょう、そう言う有難い道が開けて来たにもかかわらず、只お願いしてつつっと帰るだけ、いやお願いをして神様の御返事と思われる様な御返事は聞いて帰りよるけれども、それを実行しないならば聞いて帰らないのも同じじゃないでしょうか、だから片便になってしまう、おかげも片便、ですから私どもか願うこと同時に又それを頂いて帰ると言うこと、聞いて帰る、 物言うて聞かせるところあるまいとおうせられてがこうして物言うて聞かせて、下さるのですから、それを聞いて帰って自分の生活の上にそれを頂いて、帰ることになるので生活の様子と言うのが、もうがらっと変わって仕舞わなければならぬ、信心させて頂くものと、信心させて頂かないもの、違いは所謂、物の観方感じ方が違って来る、思う事も段々ちがって来る、それを朝参ってお願いして帰って来てからと、それでもおかげ受け取るけれども、それは方便である、最後に仰って居られる様にね、一心を立ててからおかげになると言う、願うと一心と言う事は、願うことどうぞどうぞと、願うからやはりそれでもおかげは頂くと言うのである、けれどもそのおかげはいわゆる片道通行の様なものである、言うならばおかげは半分しか受けていないと言う事になる。
物言うて聞かせて下さるその事を、本気で頂かして貰う、聞かせて貰う、それを生活の上に表して行く、精進をさせて貰うだからそこでは方便ではない、広い広い大道に出た様な、おかげが受けられる訳であります、窮屈じゃないわが心に神がござるから、一心を立てればおかげになるのじゃと、と言うのです、だから金光様だけではなくてよいと言うこと、電信柱を拝んでもいい、わが心に一心を立てるからおかげになるので、だからそう言うおかげ話しを聞いて帰って、言うならば教えを頂いて、教えに基ずいた生活ができると言う稽古を、させて頂いておる内にです、又ここのところを頂かなければです、今私が申します最後に天地金乃神と一心なりと言う様な、おかげになって来ないのである、この方が祈るところ天地金乃神と一心なり、私どもが願うところやはり天地金の神と一心、そこのところを目指して行く信心にならして貰う、そのためには方便の願い捨てではいけないと言う事。
方便の願い捨て的なおかげで、天地金の神と一心と言った様な事になって来る筈がない、ですから金光様の信心させて頂いておるから、それまで神が物言うてくれる、これ迄の信心、教祖金光大神の御出現以前の信心と五十歩百歩と言うことになるのです、教えを頂いて帰りそれが家業の上に、又は行き方の上に物の見方、考え方の上に違いが出来てこなかったら、金光大神御出現以前のこれまでの信心と五十歩百歩であると言う事、所謂哀しいときの神だのみ的な、言うなら一心に拝むとか一心に参ることによって、おかげを受けるだけに過ぎない、これではそれならかならず金光様でなくても良い、わが心に一心を立てれば、神が御座るからおかげになると言うおかげは、おかげになるのです、けど天地と一心天地金の神と一心なりと言う様な、おかげになって来ない、ですから金光様の信心頂いておっても、方便の願い捨てであろうがと仰る、方便の願い捨てと同じ様な人が沢山あろうと思います。
御教えは頂く所謂御理解は頂く、けれどもそれを実行しないならば、方便の願い捨てと同じ事、それじゃおかげが半分、どうでもおかげが頂きたい、それも神様がいつも私を守護しておって守っておって下さる、天地の親神様は私どもか気が付く気が付かないにかかわらず、やはり守っておって下さる、けども実感としてね天地の親神様との交流を自分の身に心に感じさせて貰うと言う程しの信心が愈々有難いと言う事になる。
昨日でしたかね新聞に北京人の白骨が発掘したんでしょうね、もう人間、一番古いと言うかね、もう何億年か前か分からない様な人間の頭蓋骨が出てましたね、人間も元は猿に近い様な感じですね、あの頭蓋骨から見ると、額が非常に狭いそれが段々進化して参りましてこう額が広い、額の広い人は心も豊かだと言われております、いうならば現解力も段々強くなっとる、と言う事になります、私どもは段々おかげを頂いてです、額が広くなる時代にこうやって生まれたと言う事はです、教祖金光大神が例えば天地の道理をお解きになる、天地のご恩徳をお説きになる、それが猿に近い様な頭脳ではです、それをとうてい理解する事は出来ません、現在の人間は世界中の隅々に至るまで、その位の進化を頂いておりますから、言うてきかせりゃ分かる、頂くと言う気になれば誰でもわかるだけの頭脳をお互い頂いとるわけ、如何にそう言う受けものを頂いておりましても、こちらが頂こうとしなかったら、それは言うなら猿と同じ事、いわゆる額の狭いのと同じこと、折角受けものなら受けもののおかげを頂きながらです、その受けものに受け様としなかったり、類人猿ですか猿と同じ様な、何億年も前の人間と変わらない事になる、どんなに言うて聞かせてもわからない。
お互いがおかげを頂いてわからして貰ったら、いうなら進化を得ておる、道理を言うて聞かせりゃわかる、ところがちっとは、あまり額が広くなり過ぎてから、こんどはわかる以上にわかる、言うならば神様が御座るの御座らんのと理屈を言うのは、それ以上に発達しすぎとるとです、素直に聞けないだから額のひろかとも、適当なところでなからにゃいけん、例えばこうゆって私がお話しておる事が、神様が額に対する、方便の願い捨てでなくて、物言うて下さってあるんだと致しましても、それを頂かなかったら理屈は同じ事になります、私ども一つ本当に神様の氏子としての自覚に立たせて貰って、その親神様であるところの親神と私ども、親子の交流かはかられる道を教祖金光大神は開いて下さった、それには願うこともよかろう、願わなければならない。
それはそこまでやらせて頂くでも、願って行かねばおられない同時に私どもが、聞かなければならない頂かなければならない、神様のご返事を頂かして貰わなければならない、頂いてこちらの言う事だけではなくて、神様の教えて下さる事も聞かして貰って、それを実行にうつして行くと言う生活がお道で言う本当の信心生活である。そこから段々その稽古を積ませて頂いている内にです、天も地も昔から死んだ事なしと仰られる、天地が生き通し生きてござると言う事、こちらの心が生きておればその生きた働きをそこに感ずること、例えば私が今朝おいさみの中から生きた天地を感じさせて貰う、と同じ様に天地金の神様の御心に通う行き方、それが天地金の神と一心、教祖の神様だけが天地金の神様と一心だけではない、私どももそこを目指さなければならない、ためには今までの信心ではいけない、言うならこれからの信心これからの信心とは、方便的な信心ではなくてこちらが願った事に対する、そのお答えを聞いて帰って、それを守らせて貰う行じさせて貰う生き方、生活の中から本当の人間の事、天地金の神と一心なりと言う程しの、有難い生活が開けてくる訳であります。
金光様の信心を頂いているからと言うて、やはり片便の願いすて的な、信心をしておる人がどの位おるかわからん、それでは何様を拝んでも大した変わりはない、金光さま信心を折角頂くのですから、しっかり教えを頂いて教えが身について来ることの願いを、立てなければならんと思うですね。どうぞ